最近、特に大学の卒業式後にブログのアクセスが多くなった。一体誰が何のためにアクセスしているのか。多分「京都造形芸術大学」とか「卒業式」というキーワードで検索し、このブログがヒットしていると思われ。

で、アクセス数100くらいまでは実感できる。なぜならBUDDYスポーツ幼児園が、だいたい一学年100家族だった。何かあるとしょっちゅう学年単位で集まっていたので、「100名」というと「あんな感じかあ」とわかるけど、それ以上は全然わからない。でも今はUU400くらいで、全学年かあ、なんて。多分お金と一緒で、10万円まではなんとか把握できるけれど、それ以上はただの数字という今の感覚と同じかもしれない。でもこれもみんなそうですよね。お金というより数字、データ、それを運用して上手くいくとゼロが増えたり減ったり、マネーゲームとはよく言ったものだと思う。

私はそういうのもうやらないことにしているのは、独身時代実際にトレードしてみて私には一ミリも向いていないとわかったから。今回たまたま出てきた外貨預金、あれはずっと忘れていたから上手くいったと思う。そしてお金が必要になった時にたまたまレートも良く、さっと解約することが出来た。これも多分何かの運。もし今みたいに1ドル111円だったらまた迷ったかもしれない。

京都造形入学しようと思った時は90円くらいで買ったドルが120円になっていた。今思うとこれも何か運命を感じる。これが日本円化できなかったら入学を諦めていただろう。今までで一番利鞘があった事例だし、こんないいタイミングのものはなかった。特に株なんて本当にダメダメで、高いと買いたくなり安くなるともう嫌だと売ってしまう、ダメじゃん!どれだけ勉強代を払ったか、もう一度通信大学には軽く行けただろうなと思う。 

もしも私が急に富豪になり、どこかにお金を預けないといけなくなったら多分ここに預ける。もう二度と自分で運用などしない。ここの美味しい料亭のお弁当付きセミナーに行ってみて、これはほとんど冷やかしなんだけれど「本物」だと思った。プレゼンテーションも素晴らしく、一緒に行った友達とこんなところに資産を預けられる人になろうと誓い合ったくらい。   
   
マーケットの話はそのくらいにして、最近本当に家計が困窮してきて、喧嘩するのはいつもお金のこと、お金がないので一家離散も出来ないという事になっている。でもこれはこれでいいのかもしれないとも思う。ないならないなりになんとかする私、お金はあればあるに越したことはないけれど幸せの全てではない。こういうのって子ども達に説明するのってすごく難しい、そう言えばじゃあお金は大切じゃないのかと言われればそうじゃない、やっぱり大事とか、面倒だけれどコツコツ話さないといけない大切なこと。節約節約といいつつ、大学も卒業したし京都いったりランチもお茶もする、一方でUHNCRを支援したり去年からかものはしプロジェクトにも寄付しだしたとか、そういったところにも運を投資したりするとか、そういうバランスはみて覚えて欲しいように思う。。新年度からはライターの収入の一部をまだどこかに寄付したいと考えていて、何か享受していると思ったらどこかに提供する。そういうものが今の私の経済学みたいな感じ、数字なんだけど右脳的な感覚や判断は大切にしたい。
   
そういう話はともかく、「卒業式、分科会」の話題。

貴船口から叡山電鉄で30分くらいで「茶山駅」に到着。ここでも貴船と大学が近すぎるから、小説の設定をなんとかしないとなどと考え駅から歩く。この時点で14時20分くらいだったので、大学までバスかタクシーに乗りたかったのにバス停も空車も見当たらない。仕方ないので徒歩で大学に向かう。袴姿の大学生と何人もすれ違う。もしかして通学生の卒業式の後、通信生卒業式なのかなと思ったらその通りだった。  


※通学生卒業式

※通信生卒業式

今更だけど、生徒数の割合はこんな感じ。大学サイトにデータがあった。

通信生が通学生の倍‼︎ そうなんだ、まさに通信大学!大学院も通信生の方が多い。先生や事務局合わせると1万人近いのでは。こんなによく人が集まるものだと感心する。「日本で最も大きな芸術大学」だそうで、そんな大学の卒業式、分科会その他色々、せっかくなので赤裸々に書いてみたい。

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やっと到着、京都造形芸術大学正門正面。というか門はなく階段上ればいきなり校舎な感じ。真正面に卒業式の看板があり、そこで何人もの人が写真を撮っていた。と、いうことは通信生の卒業式も始まっているだろう、貴船でちょっとゆっくりし過ぎたと思ったが、それでも貴船なんてもう来られないかもしれないと思えば致し方なし。急いで会場の「春秋座」に向かった。

もう場所もわかっているので真っ直ぐ会場へ。何人かの多分事務局の方が立っていて誘導されたものの、もう最初のスピーチが始まっているのでそれが終わるまで待つように言われる。待機したものの待てども待てども終わらない。周り込んで反対側の扉からそっとのぞくと先生達の席の後ろの扉だったようでぎょっとしてまたそっと扉を閉じた。一瞬だけれど「偉そう先生」の横顔が見えた。よしっ!終わったら声をかけて話をしようと思った。そのまままた待機してと言われたところに戻ると間もなく扉が開いて会場内に入った。


Facebook から画像拝借。両端のボックス席には先生たちがズラリ。

コース毎に場所が決まっているようで、私は当然文芸コースのエリアへ。皆ぎゅっと固まっていて写真など撮っている、うわっと思ったものの何故か空いていた一番前の通路側に座るとすぐに式が進行しだし、それでも誰がいるのか気になり後ろを振り向いてジロジロ(やめなさいよもー)みると、一瞬モアイと目が合ったがすぐに逸らされる。えっ?昨日懇親会来なかったよね?でも卒業制作発表は来たよね?なんで?二日日帰り?と思ったものの、多分聞いても答えてくれないだろうなあなんて思いながら壇上をみると、学長理事長がこちらをみているような。せっかくなのでとオペラグラスで覗いてみると、やっぱり見られていた。でも怒っているのとも違う、笑顔でもない、なんだか不思議な表情。一体なんだろうと思ったけれど後に納得。もう怒りを通り越して脱力していたということなのではないか。



その後学長のスピーチ、「青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ(サミュエル・ウルマン)」などなど。以前お会いした時と比べてなんだかオーラが消えているような気がした。

学長と私はこれが初対面ではない。大学生活が順調な頃、「こども芸術の村」のイベントが外苑キャンパスであるというので出かけてみた。丁度その少し前、豊洲小学校で成人教養委員会の展覧会に作品を出し、それを見た方が「絵画教室やってくれませんか」などと言い、その時は「絵って教えない方がいいんです」なんて言ったけれど、確かにそういう「機会」としての教室はあれば自分も子どもを通わせたいなんて思い、なにか参考になるかと馳せ参じてみた。

何か資料がないか探してみたが見当たらないのでコピペできないけれど、京都造形芸術大学と連携している東北の大学の双方の学長の対談や、実際に「こども芸術の村」で作る焼き菓子の試食などあり楽しい内容だった。この焼き菓子、ガレットデロワという名前で、中に小さな陶器の人形を入れておいて、カットして食べて、食べて中に人形が当たった人は幸せになるというもの。試食といえども大き目のホールケーキが6か8等分くらいにカットされ、食べ応えも十分だった。食べているとあちらこちらから当たったとか人形が出てきたなどと声が上がり、ほどなく自分の食べていたものからも人形が出てきた。 

私は嬉しくなりブログに書こうとスマホで写真を撮った。すると左手で持っていた紙皿がふわーと傾き、床に落としてしまった。お行儀悪いことするからだわと反省しつつ、飛んできた事務局の方と一緒に片付けた。「まだたくさんあるからもうひとつどうぞ」と言って下さり、今度はちゃんと食べなくてはとお菓子を食べているとまた人形が出てきた。「あれ、またあった」というと周りにどれどれという感じで人が集まりだし、すごいとかラッキーですねと言われているところに学長が来て、「これはすごい、ラッキーがふたつも」と喜んでいた。

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これがパイの中に入っていた。ふたつも(^^)なんか捨てられなくてずっととってある。もう宝物かも。

私もこんな事があるなんて、これからどんないい事があるんだろうと思っていたが、ブログにはこの件は書かなかった。この時このイベントに関わっている方々と話をして、「こども芸術大学」を豊洲でもと言ったら、誰かがあなたがやればいいじゃないと言いだし、そういう方向で話をしたらいい感じになりそうな雰囲気、学長にも対談後の質問コーナーで話したら、他にも私も違う地方でやりたいなんて方もいらして「協力できることはなんでもしますよ」なんて言っていただけて本気でやろうかなあと思った。

自分一人で絵画教室をやるより京都造形芸術大学に繋がる「こども芸術大学」とコラボすれば、京都造形芸術大学も関東でもっと認知されるようになり、豊洲のママ達から入学希望者が出るかも、私は月一くらいでイベントを開催し、お絵かきや識者の講演、そうだ香山リカさんもこのカテゴリで講演会、なーんて考えていた。結構あちらこちらにも声をかけていたし、ずっとは無理だけど登壇くらいなら協力できるなんて有名な方も。でもなんだかんだだんだん風向きが怪しくなってきて、大学で助成金申請をしたが得られなかったところですっぱり諦めた。

その後はまた卒制や文学フリマなど忙しくなり過ぎてわけわかめになったことを考えると、助成金通らなくて良かったと思った。申請が通らなかった理由は「永続的なものは対象外、でもいい試みだと思うので頑張って」みたいな感じだった。大学から締切終わっても申請書を出して出してと言われて出したのにNGで一体なんだったのかとも思った。でもそこから紆余曲折を経て「こども食堂」に繋がったのだ。

そんな訳でもしかしたら、豊洲で「こども芸術大学」というのは上手くいかないと予感していたような、学長レベルが協力すると言ってくれているのに何故?と今考えても不思議だけれど、ブログに「こんな事がありましたーこれこれこういうのをやります」と書けなかったのは、やはり第六感的なもののような気がする。その時の学長は大きく輝いてみえて、その時はまた学長の真ん前という席で近かったせいか濃いオーラを感じた。卒業式ではそれが薄くなっているように感じたのはもしかして私のせいかなあ。でも学長は大学関係者にとっては神なのだから、これからももっと輝いて頑張って欲しいと思う。

学長が私の出した手紙を読んだのか本当に読んでないのかはもうわからないままだけれど、今更そんな事はもうどうでもいいと思う。でも卒業式の時はまだこだわっていて、「偉そう先生」にこの件も是非聞かなければなんて思っていた。もちろん問い合わせも何度かしたが、事務局の時点で受け取っていないという、もし内容証明としての記録などあれば郵便局に問い合わせてくださいという回答。そこで思い出したけれど、こうなる予感がして郵便局で出した証拠が残る方法で出して下さいとお願いし、窓口でその分余分に料金を出した覚えがある。

でもそれがなんだったのかいつだったのか、書簡には日時を記したのでそのすぐ後ではあると思うが、わざわざ郵便局までいって延々と順番を待ち手続きをとり、それがわかったところでどうなるのかとも思ったし、その頃は同様の問い合わせを事務局宛にしていたこともあり確認しなかった。控えも探したけれど出てこなかった。だいたいもう部屋の中は、武蔵美、京都造形の教科書関連冊子シラバス本や雑誌様々な資料や書類でごった返しており、何か探すのも一苦労。授業で配布された資料も全部あるので多分その中のどこかからそのうち出てくると思う。でもその時見つかってももう何も役に立たないだろう。「ここにあったのか」と思ってそれが挟んであった資料を眺め、この授業ではこんな事があった先生はこんな風に話していたなどと懐かしく思い出すだけだろうから。

卒業式は粛々と進んだ。学長挨拶から副学長、来賓の挨拶の後は太鼓の演奏と校歌斉唱。でも通信生でこの歌を知って居る人は多分だれもおらず、皆さん苦心して歌っている振りをしていた。私は大人気ない人なので歌うもんかとずっと腕組みをして周りを眺めていた。今度から先生達だけが歌って私たちに校歌をプレゼントするか、いっそなくてもいいと思う。そういうもんじゃないと言われるかもしれないけれど、どう考えても茶番だ。

そんなこんなで通路側、遅れてきたので目立ったのか私とわかったのか、というかSNSに写真があるから理事長も私とすぐわかったのだろう。理事長は思ったより若くなかった。私と同じで顔がつるっとしているからなめられると書いたけれど、普通に「理事長」という感じだった。なんだかお疲れのように感じた。

各コースごとに順番に退場をお願いしますということで、前の方からだったかランダムだったか順番にアナウンスがあり会場を後にした。コース毎に区切られているが、多分席は卒業生全員分あるのだろう、私の前は芸術学コースか歴史遺産だったか半分以上の席が空いていた、もちろん文芸コースはじめどこもそうだった。そういえば懇親会や卒業制作発表会は出欠のアンケートがあったが、卒業式はなかった。というこは、卒業式は全員出席するという前提で準備がなされるもののよう。分科会での卒業証書授与でもいる人もいない人も全員の名前が呼ばれた。

出席する人としない人の違いはなんだろう。私みたいな怖いもの見たさというレアケースはともかく、やっぱり「行きたくない」という人もいるだろうなと思った。文芸コースはボスママとその周りはともかく、ひとりで参加する学生も多く、今思えば全員に無視されるというようなことはなかった。あの辺り以外の方とは普通に話して一緒に帰ったり。嫌な人が数人なら無視すればいいだけだが、これこそが私がずっと言い続けている「ぎゅっと固まってそこにいるたったひとりを居心地悪くさせる」というもの、「そうさせたい」という人がひとりでもいるとターゲットは周りが全員敵のように感じてあっという間に居心地が悪くなる。

で、そういうのを一度でもした人というのはまたどこかでやるだろう。だんだん上手くなってなにかあっても「そんなつもりなかった」と言えるように周到するだろうし何かあればさっと大きな樹の後ろに隠れる。今思えばおおえかもかつてはどこかで被害者の経験があるかもしれない。人はイジメられなければその存在は知らないはずで、私の話も「ドラマか小説みたい」という人は絵空事と思うのかなあとか、そんな事を何度も何度もされると人はどこか誰かに同じことをしようと思うだろうだろうとまた思った。いい事を分かち合いましょうという「ペイフォワード」と一緒でイジメの連鎖もこうやって始まるのでは。そう考えるとイジメの元祖は京都にあるのかもしれない。京都の水で洗うと人は全員イケズになるという私の考えは全く違うともいえないのかも。

京都の大学、企業、組織、コミュニティ、それらに属してイケズの洗礼を受け、そういう人達が全国に散らばり日本にイジメ文化が根付いてしまったと。もっと昔、京都から東京に遷都したころにもその文化は一緒に移ってしまったと。そうじゃないと反論があるもしれないけれど、どうもそういうイメージが京都についてしまい、帰ってきたばかりはまた行きたいと思ったけれど今はやっぱりもう行きたくないような。独身時代楽しかったのは何もしらない無垢な気持ちで訪れたから楽しかったのだろう。 

だいたい長居する人に「ぶぶ漬けいかが」なんて文化、京都の外では笑い話しだろうけど、やられた人は嫌だろうし忘れられないと思う。まあ、そろそろ帰ってというの私も娘が赤ちゃん時代ママ友たちに言えなくてその後様々にトラブルにはなったが、距離詰められ過ぎて嫌になったりした事もあり、もう仲違いするくらいで良かったなんて思うこともあったので便利な文化といえばそうなのかなあ。そう思うとあのボスママや不愉快な仲間たちが京都近辺出身大学は京都という事を考えると改めてなんだか何もかもが腑に落ちる。多分物心ついた頃からそういう風に生きてきたのではないだろうか。で、私のような「みんなで仲良く」みたいな空気を醸し出す人かウザいと感じたと、西に誰かが仲良外れになったといえば行って怖がらなくてもいいと言い、東にもう引っ越したいという誰かがいればお金もったいないと諭し、ボスママたちに楯突いたまま豊洲に住み続ける。もしかして私ってネ申?なんて。

ちょっと残念なような、それでも何も知らないよりはわかって良かった。何より子ども達に伝えられる。京都は東京で育った人は水が合わないよって。名古屋人が名古屋を出たがらないように、京都人は京都で固まっていて欲しい。こう考えると京都のカラーに染まらない東京の先生達は貴重だった。N先生はどうだろう、長年この大学にいて色々思うところはあっただろう、でもあの先生はいつも真っ直ぐで陰でなんかするとか意地悪な事はなかった。ただおおえかに強く出られなくなってからは色々あったしそれを止めようと私が弄りだしてからは特になんやかやあった。そもそもおおえかN先生をナメていたし操られている先生が本当にお気の毒でしかも私のせいというのがみていられなかった。そういう意図がわかってもらえなかったのはやっぱり直接話が出来なかったというのが問題の一番の原因だったように思う。

3月29日の日経新聞の夕刊『あすへの話題』で東京大学教授、西成活裕さんが「誤解とはなにか」というものを書いていらして、「誤解はコミュニケーションにおける渋滞」だそうで、「込み入った内容を伝える場合ではなるべく直接会った方がよい」それから、「誤解によって人々の考えに自然に多様性が生まれる」とも書いてあり、なるほど頭のいい人はこうして理路整然と物事を考えられるのだと思った。私も常々これはそうだと考えていて、なので何か打ち合わせとか詳細を伝えたり話したりしなくてはならない時は、絶対メールでは済まさない。特にSNSは便利ではあるが、文字数少ない方がシンプルでクールという風潮の中で、言葉を省略する必要が出てくる。そうなるとあっというまに双方違うものを所有することになる。もちろん会わずに済ませた方がいい場合もあるので全部否定するわけではないが、ルーティン以外は、電話、時間が許せば直接お会いして話すようにしている。そうでないとやっぱり「伝わらない」

そういう訳でN先生とは「穏やかな面談」がとうとう叶わず、直接話したのが暮の懇親会が最後ということになってしまった。もう面談どころかお目にかかる機会は二度とないだろう。何故なら先生は大学を辞めてしまった。原因はもちろん私だろう。事務局や委員会の対応がまずかったと責任転嫁はしない。私が先生を追い詰め、大学の対応のまずさも利用したところがある。かなり下手打っていたし、私がそう仕向けたところもある。それでも思うように事が進まないので学長に手紙を出し、理事長にはメールをした。

先生が退職したのはご自身の希望もあったと思うが大学も引き留める術がなかったのだろう。自分の希望通りになったとはいえ、思うところも勿論ある。こうして書いていても後悔が募るし、それでも色々自身の苦悩を思い返すとこれで良かったとも思う。今は全然気持ちが定まらないのでこのままコロコロ変わる気持ちも書いてみたい。

結局何も弁明せず私の前から消えた先生、絶対色々と誤解したままだと思う。でも何もかもわかった上での答えなのだろうとも思う。多分先生はもう私を恨んでも恨み切れない、顔も見たくないほど大嫌いだと思う。私もそう、でも今となって思うのは、先生が私を嫌いでも私は先生が好きなのかもしれない。でも反面やはり許せない気持ちもいまだある。どうなの?どっちなの?

人間には様々な要素がある、例えば私はこういうあまり世間には受け入れられないタイプのブログを書いているが、社会問題にアプローチして世の中をよりよくしたいという心根もある。子どもを叱って邪見にしたりするが、誰よりも幸せを願っている。こうした鏡に映したような別の顔は誰もが持っていると思う。そのどちらをみるかは人の勝手だし、それが全てその人の評価にはならない。

N先生も斬ると決めてからは先生の落ち度を追及し続けたが、それすら別の視点で見れば美点でもある。私を叱り過ぎたのだって先生が素直で暖かな人間味に溢れている証拠で激情は一途さの表れ、それをどちら側に視点をあててどう表現するかで全く違う印象になってしまう。特に私はそれらを学ぶために大学に入ったし、文芸コースで言葉について学び文も章も組み立てられるようになった。特にN先生からの並々ならぬ教えにより様々なものを吸収できたが、その成果がN先生を苦しめた皮肉。私の卒業制作はもしかしてこの愛憎物語シリーズかもしれないと思う。書くことで人々を動かし自分の思い通りの結末になった。でも正直ちっとも嬉しくない、でもこうならないことには私は納得できなかっただろう。

先生が大学をやめるというのは、分科会で知った。分科会というのは、卒業式の後各コースに分かれて何処かの教室に集まり、先生たちの話をきいて卒業証書をコース責任者の先生から各人に渡される会、という感じのもの。しかし文芸コースの責任者の先生はおらず、司会の寒竹先生から「N先生はどうしても来られなくて」と説明があり違和感を覚えた。そんな安易な説明あるの?って。普通何々でとか理由があるのでは?と。

その後クルーソー先生から卒業おめでとうございますなどとお話しがあり、「N先生からみなさんにお祝いの言葉を受け取っています」と手紙を読みだした。「卒業おめでとうございます、そこには行けませんが強い思いでお祝いを言います、それから学問の根は苦いが実は甘い、何も収穫するものがないと思っている人がいるかもしれないけれどそれは違う」とかなんとか。そういう話が続いた最後に、「僕は今年度をもってこの大学を後にします」とあった。えっ、ちょっと待って、今のところもう一度!と思ったが話はそのまま終わった。それについて詳しい説明もないし、周りから動揺した空気も感じられなく、それがますます違和感を強めた。 ええー!とか、先生なぜですか?とかあっても良さそうなのに。私はもちろん驚いたが何か聞ける立場にないと判断し黙っていた。

その後はクルーソー先生、他の来賓の先生達からのお話があり、各自に卒業証書が授与され分科会は終わった。私は「何もかもが終わった」と感じた。

その後、集合写真を撮る雰囲気も指示もなく、各自バラバラで写真をとっていた。私は数人の方と卒業証書授与のシーンをとりあっこしたのと、寒竹先生クルーソー先生とそれぞれツーショットを撮っただけ。

ボスママが相変わらず私以外の人達とワイワイと集合写真を撮っていて、彼女はカメラを始めたので本格的なもので撮っている。そこに自分が入り込める訳もなく、「もうこの辺全員敵でいいわ」と思った。最後の最後までこんな有様、というかこれも多分自分の思い通りなのかもしれないと感じる。 

卒業証書授与、クルーソー先生かっこよかった。

最初はたったひとりの嫌がらせだった。そのせいで自分が大切に思っていた人とも対立することになり、ますます許せないと敵対しだしたところから周りが巻き込まれた。原因を作ったおおもとの敵はどこかに隠れて出て来なくなり、何かする時は力のありそうな人を盾にしたので私はその人達とも敵対するこになった。次々と戦っているうちにラスボスが登場しそしてゲームオーバーというかこの場合クリアということになるのか。 豊洲も同じだったから大学では対応できたのかも。なんでも経験しておくものだと思う。

そんな大学や先生たちと敵対している私が学友達と和気藹々と卒業式を迎えるというのは絶対無理だしもし出来るとしたら悪魔、私は心を持った人間なので大学のコミュニティをひとりで抜けなければならなかったのだと思う。様々に集い語らった友愛の学び場、もしも私がこんな風に敵対せずおおえかの事もじっと我慢して何も訴えず、学友達との酒のさかなのままにしておけば違う世界があっただろう。でも何度も言うけれどN先生を利用したことは絶対許せないと思った。そのうちN先生とも敵対することになり先生にも嫌われてしまった。安易な言葉で片付けたくはないが、これも運命だろう。運命には逆らえないという言葉があるが、その通りだとまた思った。

そうして私は大学を後にした。分科会で、懇親会の後はみんなでお茶しにいったと聞いて、今日ももしかしたらそういうのがあるのかもしれないが、当然参加する気はなかった。もしあったとしたら、N先生がいなくなる話と私の話でもちきりだっただろう。「あいつ、やり過ぎなんだよ、ふざけんな」とボスママがいきり立ち、周りもそうだそうだと賛同する。私はそうあって欲しいと思った。みんなで私を非難してよ、あの人のせいでN先生いなくなるなんて冗談じゃないって、もうあの人の顔もみたくないって怒ってよと。でないとN先生浮かばれないし、今後もまだ大学となんらかの形で正しく関わり続けるだろうあの人達、私を吊し上げるための儀式をする必要がある。なので私は行かなかったし行けなかった。

さて、ぼっちはぼっちらしくひとりで帰ろうと思うと、学友のひとりが自分も急ぐのでこのまま帰るという。なんとなく一緒に歩くといつもは誰とも話をしたことがないのに、今日だけはなんやかや話しかけてくれるFくんもいて、三人で大学の校舎を出る。急いで帰る学友とは卒業制作の話をもっともっとしたかったので焦って卒業制作の感想などを話しあった。メールか電話番号を交換しようかとも思ったけれど、ここではこのまま別れた方がいいような気がしたので何もしなかった。論文研究Ⅰ、Ⅱでたくさん話し、様々な共感があった。多分こんな風な話が出来たのは彼女だけだろう、彼女もそう思ってくれているに違いない。くっついてべたべたするよりいい思い出のまま、時々折に触れてそれぞれ感じる想いなど取り出して眺めればいいなんて思った。色々ありがとう、あなたと学べて楽しかった。そんな事を言ったら笑顔になり、私もありがとうと言ってくれてそのまま別れた。N先生の話を振ると、衝撃がまだ消えないと言っていて、彼女は私と同じく今日初めて知ったのだとわかった。

でも今これを書いていて、他はどうだろうと。ちょっと思い当たることがある。ボスママとモアイ、それからこの二人と仲のいいぶっちゃけキャラの人、ちょっと尋常ではないわというほど私を完スルーしていた。あるとは予想したが半端ない態度に少々戸惑った。多分N先生がやめること知っていたんだと思う。そしておおえかも。

私が大学とも敵対しだしてからはちょっと分かつ空気はあったし、何よりおおえかとN先生が主担任副担任なので、その二人を非難し続けた私とは相いれないということもわかっていた。あやふやなものが嫌いな私はこれらの学友が向こうにつきやすいようにスッパリ断絶したところもある。この二人はいつも私を励ましてくれて、親切で楽しい学友代表のような人達だった。そういう人達と縁が無くなるということは、勿論とても辛くて悲しいことでもある。でもこうしないと躊躇が生まれて何もかもが上手くいかないと思ってそうした。桐野夏生さんも「躊躇が一番よくない」と言ってみえて、この場合に当て嵌めるのは相応しくないとも思うし桐野さん困ると思うけれどやる時はやる、あちらこちらに気を使っていたら討てないと思っていた。なので学友達とも仲違いしたのも私の希望通りかもしれない。というか、そうだ。私の書いた「ストーリーとシナリオ」はその通りになったということだろう。 何もかもが私の思い描いた通りになった。

最後にFくんとバス停に行く。私はここからホテルに戻って最後の目的地「祇園から清水寺」散策にでかけるつもりだった。Fくんは京都駅に行き、そこからまた別の駅からフェリーに乗るという。私はびっくりした。「だったらこのバス停じゃなくてあっちだよ。このバスだとすごく大回りになるし、間に合わないよ」と、早く早くとせかした。でもこのバスで行こうか向こうで行こうか迷っている風で、もしかしていつも私が所在無さげにひとりでいるので、寄り添ってくれているのかなあとか、発表会で隣に来てくれて前の私だったらわからなかったそういう優しみ、ひとりでいたからわかったのだと思った。

もしあの賑やかしい人達とずっと一緒にいたら、それはそれで楽しかったと思うけれど、ひとりで来ていた人達とも話をしなかったと思うし、何もわからないままだったと思う。やっぱりひとりでいるって時には大切。Fくんに「ね、大学で友達できた?」と聞いたらえーみたいな顔をしたので、「私、ひとりも友達できなかった!」というとにこっと笑った。受けたかなあと私もあははははと笑った。なんかスッキリした。笑うって大事!最近辻先生はSNSで、塞いだ感じのTweet が多い。もしかして「笑い」が足りないのではなんて思った。私が自由の身なら掻き回しにいってあげるのに。変な顔したり後ろからおどかしたり。ってまた違う話しになっちゃう!妄想は小説だけにしよう。

でもずっとぼっちでいいなんて、そんなことは思っていないし、私はこの二日間、ひとりでいたのはひとりで行動している時だけだった。大学や懇親会では誰かしか周りにいたし、話し話され共同体の中にちゃんといた。でも「ひとり」をひしひしと感じてしまったのは、自分を排除したいという空気だけを見つめてしまったからだろう。そういうものを感じない無視する強さは私にはまだないんだと思う。もっともっと強くなりたいなあ、また桐野さんが言った「強靭になってください」という言葉が思い出された。

それにどうしたらなれるのか近づけるのか全然わからない。でも多分だけどもっと自分に素直になることではないかと思う。人に対しても出来事にしても、もっとおおらかな気持ちでいられるようになれば、たいがいのことは静かに過ぎて行くだろう。私は気が強いわりに小さいし、細かいところが気になるし思いこみも激しいし拘りが強い。多分すごく付き合いにくい人、そういう顔を隠しているつもりはないけれど、あちらこちらでパーンという対応をされる。甘い顔をしているので甘くみられるのだ。前はそれが嫌で仕方なかったけれど、今はそうでもない。そういう風に見られるのも私の利点のような気がする。もうこれでいいかあ。

Fくんはせかしたせいか、ちゃんと京都駅行のバスに乗ってくれた。迷っていたのはきっと別れを惜しんでくれたのだろう。ちょっと苦手だったのに、卒業発表会からガラッと印象が変わった。外苑キャンパスで会うので東京の人だと思っていたけれど違った。大変だっただろうなあ、よく卒業できたと感心してしまった。彼も卒業が寂しいだろうな、でなければ遠路はるばる卒業式には来ないだろう。

京都造形芸術大学通信は、本年度は歴代最多の卒業生だったそうで、喜ばしいことだと学長がスピーチしていた。今年の卒業生の人数はメモしていないけれど、学士(卒業生)の総計は6,297名だと言っていた。これも卒業式の動画がアップされているので調べようと思えば調べられるけれど、もう今はそんな気持ちなくなっている。

話を戻してN先生はいつ大学を後にする決心をしたのか。1月末の最終面談で卒業式に行くつもりがないと話していると聞いた。でもその時点では「卒業式に行かない」だけでやめるつもりはなかったのではないか、それを外苑事務局の私に対する温度で推測するなら、フライングカフェ以降、3月の藝術学舎までの間だと思う。フライングカフェでは普通だったが、藝術学舎の時は包み隠す事のできない怒りを感じた。それはN先生のことがあったのではないだろうか。

N先生は誰にも好かれて人気がある、時々熱狂的に好きすぎる人がいて軽く引いたりしていたくらい。なのであの外苑事務局のあの人は、私に怒りをあらわにしたんだろう。色々あったがそんな事は今までなかった。フライングカフェ以前、私は人間関係委員の先生達と様々に話した。N先生はそれらの方々からのいちいちの問い合わせに疲弊し、それからカフェのメンバーから外されたり直球の詰問など積み重なり「もういい」と思われたのではないだろうか。もしそれ以前に決まっていたならカフェ前の面談は実現しなかっただろう。

もちろんこれも私の勝手な想像で、そうかもしれないし違うかもしれない。でも当たらずも遠からずなのではないだろうか。だって来年度の文芸コースシラバスにN先生の名前まだあるから。急に決まったんだなと、決めてしまわれたんだなと思った。おおえかはどうだろう、正式な発表がないのでわからないが、ボスママモアイの態度からしておおえかも出されただろう。でなければN先生「だけ」いなくなるというわたし的に最低最悪の結末ということになるが、それはないだろう。

ボスママとモアイは京都に来る前に知っていたんだと思う。で、親しい周りの人達に周知し、知っているひとは私を完全無視し、知らなかった学友達は普段通り。知ったのは3月11日だと思う。この日おおえかが脚本を書いた演劇が上演された。


上記の感想はかなり以前の作品だけれど、「ちぐはぐ」という感想がつくのは当然かと思った。で、ボスママモアイは自分達の主担任の先生の作品、見に行かない訳がない。私は観にいくつもりだったが、気が付いたら日にちが過ぎていた。彼らはここで会い、話し、大学を去ることをきいた。もちろん連絡先を交換しただろう。大学の先生と生徒が、特に通信生は個人的な付き合いは憚られる、だがもうそこに属さないというのなら何も問題がない。そこで二人はますます私をはっきり拒絶するしかなかった。ここまできたらどちらにもいい顔をして付き合うなんて出来ないだろう。何より私がそれを拒否した。

人の心はなんと単純で愚かで深いんだろう。N先生のことを考えるとこんな呑気な事を言っている場合ではないが、つくづく思ってしまった。もしかしたらこの学友達のことは、もともと好きではなかったのかもしれない。今にして思うのかもしれないが、それよりはいつもひとりでいた朋輩Wさん、論文研究で先生にきっちり意見したOさん、こういう「いつもひとりで行動していた人」にシンパシーを感じていたと思う。この二人は美しかったし自分のスタイルと信念をきっちり持っていた。その他、通信教育のスクーリングでは「ひとり」の人が大勢いて、全然寂しくなかった。孤独を感じてしまうのは、ぎゅっと固まる群れに目がいくからだろう。そうはいっても共同体は必要で、そこに静かに揉め事なく平和に存在しなければ人として幸せにはなれないとも思う。

人が生きていくために必要なものは現代社会としてはまずお金、でもそれだけでは豊かな幸せにはならないというのは全ての人が知るところで、人間が人間らしく生きるために必要なものは、共に生きる人。共同体の中でやっと人は人らしく生きることができるのだと思う。こうしたささやかだけれど大切な、「人はひとりでは生きていけない」ということを、この大学で縁を受けたことでよく理解できた。人や組織との縁、繋がり、そうしたものを断ち切ることなく続けていくこは、新しく繋がるより難しいことでもある。ただし、自分が違うと思ったら飛び出してもいい。私はこの大学にずっと違和感があった。もう嫌だ、出たいと強く思った。何もかも望み通りの結末、嬉しいかと聞かれればそうではないし、後悔しているかというと全く違う。もっともっと先になって、違う感情が出てくるかもしれない。

ホテルに戻って地下のアーケード街でお土産を買った。駅ナカやその周辺は多分どこも混んでいるだろう、ホテルの中のお土産屋は過不足なく欲しいものがあった。普段不義理している方やあの方この方子ども達にと色々買い込む。買った後はコンジェルジュに与謝野晶子ごっこの相談。少々困惑されていたが、多分景観的にこのあたりではということで、清水坂をあがる途中なのではということでタクシーで移動。

途中、五条大橋を通ったので「牛若丸と弁慶が出会った橋なんでしょう」と言うと、ここではないもう少し先の小さな橋がそうだという。そうなの?ずっと五条大橋がそうだと思っていた。だって歌にもあるじゃないですか、京の五条の橋の上って。でも確かに五条大橋とはいってない。その橋の近くに停車してもらって、せっかくなのでと渡って戻ってきた。車が一方通行しかできない割と小さな橋、灯りも少なく人も歩いていなくて寂しい感じ。
でもタクシーの人がいうならここで間違いないだろう。弁慶もここで義経に出会ったばかりに、数奇な運命をたどることになった。それでも弁慶は幸せだったに違いない、それまで多分ずっとひとりでいて刀狩などしていたのだから。

たったひとりの人と出会うことで、運命が変わってしまうことがある。私とN先生はどうだろう、良かったのか悪かったのか、今は悪くてもいつか良かったと思うかもしれない。今は私もどっちなのかわからない。偶然は必然なのか、何故こんな事になったのか。渦中は苦しくて辛くてN先生だけじゃなく大学側の人達は全員敵だと思い恨んで憎んで嫌いまくった。でも、もう私も含め誰もいなくなる。

あっけないくらいの衝撃の結末。

クルーソー先生があの手紙を読み上げた時、私は京都の街の摩訶不思議さが怖くなった。安井金毘羅宮で「悪縁を断ち切りたい」と願掛けをした。N先生がどうこうなんて思ってもいなかった。でもこうして考えると、N先生は私にとって心を掴んで離さない悪い人だったのかもしれない。様々に揺すぶられ傷つけられ、こんな風なので色々が疎かになり上手くまわらなかった。逆にだからこそ頑張れたものもある。でもいなくなったというだけで私の気持ちは穏やかになった。安井金毘羅宮に行った話をしたら、お参りした途端自分が悩みから吹っ飛んだという方がいて、ぞーっとしてしまった。安井金毘羅宮恐るべし。 

それから、平安神宮で二回おみくじを引いたと書いたが、最初にひいたのは「末吉」だった。そこに「待ち人来たらず、便りあり」と書いてあり、何も心当りがないのになぜか気持ちが沈んでしまった。なんだろうと思っておみくじを引きなおしたら大吉で気分盛り返せたが、それでもなんだろうなんだろうと引き摺ってしまった。これは多分N先生のことだったのだろう。私は心のどこかで先生を待っていたのかもしれない。いきなり分科会に現れ、「おめでとう」と卒業証書を手渡され、その後「色々と大変な思いをさせてしまい申し訳ありませんでした。卒業してもまた大学に遊びに来てください」なんて。そして「便りあり」便りも確かにあった。

なんだかこじつけの言葉遊びにとられるかもしれないけれど、これら京都に存在し続ける何ものかたちの仕業のように感じた。どこにいってもそういう気配は感じられ、私は励まされ叱咤されながら京都を巡った。私が全く否定しないむしろ敬意を払う人間ということで色々なお目溢しがあったように思う。

それに私、本当に京都来る気も卒業式に出席するつもりも全然なかった。でも日にちが迫ってくるにつれ「ナニカアル」って感じだし、行かないといけないような気持ちになった。一体なんだったのだろう、何が教えてくれたのか。結果、様々な必然偶然が重なり思い出深い旅になってしまった。 

五条の橋から祇園を抜けて、有名どころをあちらこちら教えてもらいながら清水坂の下に到着。タクシーを降りて坂を上がっていく。時間が遅いせいか、道の両端の店は全部閉まっていた。それでも清水寺までいってみようと頑張ってみたが、18時で参拝はクローズ、ロープが張ってあり清水寺には行けなかった。


近くのポスターをみると来週からライトアップされるそう、一週間早かったかー。来週あたりはちょうど桜が見頃で綺麗だろうなと思った。

桜の季節にも京都には来たことがある。渡月橋周辺の桜が薄紅のもやのように満開で、そこから雪のように花びらが川面に降り注いでいた。これを一緒にみた親友は亡くなってしまった。京都は彼女を思い出すから、余計に京都に来たくなかった。彼女が生きていたら今の私をみてなんて言うだろう。「卒業すごいね」って喜んでくれて、「バカねえ」って呆れるか笑うと思う。どちらでもいいから生きていて欲しかった。サクラサク、サクラチル、私は散る桜は嫌い「綺麗ね」って言った友達の笑顔を思い出すから。私はサヨウナラも大嫌い、だから来たくなかった、京都なんか、卒業式なんかに。

この後清水坂の下まで戻るとバスがちょうど来て、京都駅からすぐ東京に戻った。

京都から戻る新幹線でスマホをいじっていると、大学からメールがぽーんと入った。全く知らない先生の名前、内容は、今回のことは委員会としての指導で、大学の処罰や処分とは異なりますとあった。最後の最後まで何が言いたいのかわからなかったし、私の知りたい答えは得られなかった。しかもこんな内容のメール送ってきたりして、大丈夫なのかと逆に心配になる。こういう些細な大学側の失態を細々と指摘、追求し、でも確証がないというので状況証拠を積み上げた。

なんていうか、たかが専業主婦の通信生だと侮られているのも逆手にとったというか。私が手を替え品を替え様々に大学を揺さぶり下手打つように仕向けたというより、やっぱり大学の先生というのはトラブルシュートが下手すぎると感じた。こうした分野、外部の人入れた方がいいんじゃないでしょうか。そういう訳で今回のメールも言葉尻をつかまえて更に追求できそう、でもさすがにこれ以上問い合わせする気もなく返信もしない。 大学の人間関係委員会は人間関係を拗らせややこやしくさせる天才の集団だと感じた。  結局あれから「偉そう先生」には大学で会えなかった。 

東京駅に着いて山の手線に乗り換え、まだ有楽町線が動いていたし、豊洲駅から徒歩で自宅に帰れた。清水寺拝観できなくて良かったかも。11時近いのに子ども達が起きていて、私が帰ってくるのを待ちわびていたのだろう。お土産は明日と言い聞かせてなんとか寝かせる。夫は自分が夜ふかし好きなせいか、子どもたちを夜寝かせつけない。現実に戻ってきてしまった。やれやれ。

こういう不自由さも幸せだと思うけれど、やっぱり気楽さの方を優先してしまう。もう一泊してこれば良かったと思ったし、一泊だけだから濃密な思い出になったとも感じた。

これ、綺麗で美味しかった。

京都造形芸術大学に入学して良かった、何より卒業出来た。武蔵美は通信といえども私は卒業できなかっただろう。やっぱり色々と「卒業させる体制」が京都造形にはあったし、その恩恵は十分に享受した。特例を発動してもらったのにそれを逆手にとって大学を追及したりして、本当に私は恩知らず恥知らず、育ちの悪い田舎娘。というかもうおばさんだけど。気持ちはまだまだ瑞々しいままよ!卒業式で学長が、青春とは年齢ではない思い続ける気持ちだと言っていた。本当にそうねと思った。でもこんな風なので、伝統と仕来りを重んじる京都の大学で浮いたのも致し方ないか。 

金子先生、上村先生、上原先生、ご対応ありがとうございました。     

関係者の皆さま、様々に叱咤激励を頂き感謝いたします。

それからN先生、私は先生のこと今は恨んでいないし憎んでもいません。もうお目にかかることはないと思いますがいつまでもお元気で、そのままの先生でいてください。お世話になりましてありがとうございました。